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蒼き焔の彼方に  3


「明日は朝からトレッキングの予定だし、夜は宴会でドンちゃん騒ぎ?ゆっくり温泉に浸かれるのは今日だけかもね」

夕食が終わり、聖子と佳奈は大浴場に来ていた。社内旅行に付きものの酒宴は、所用で初日は参加できなかった役員たちが明晩合流してから行われることになっているので、今日は和やかな雰囲気のお食事会といった感じの晩餐を終え、皆早めに切り上げた。その後、かねてからの予定どおり、二人は本館にある天然の温泉を満喫していたのだ。

「そういえば、さっきのお婆さん変な人だったね。何となく気味が悪いっていうか」
「そうね」
聖子は佳奈の話に調子を合わせて頷きながらも上の空で、頭の中で老女に去り際にかけられた言葉を反芻していた。

『よう戻っておいでになった。山の神様もさぞお喜びになろう』

なぜ老女は彼女に「戻った」と言ったのだろう。見ず知らずの土地で、面識のない人間に話しかける言葉としては、些か理解に苦しむ。
聖子がここに来たのは初めてであることは間違いない。幼い頃は家族で出かけるような環境ではなかったし、物心がつき、一人で行動できるようになってからも、そんな覚えは全くない。

確かに、この山深い自然に囲まれた場所には、心安らげる何かがあった。あまり開発の手が入っておらず、秘湯とも呼べる温泉に潤う街は、そこかしこに疲れた心や体を癒すような雰囲気が漂っている。
しかし、彼女はここに着いてからというもの、自分の中の奥深く、記憶ではなく体に刻み込まれた何かで、この地に対しての強い愛着と、それを上回る忌避ともとれるような奇妙な感覚を抱き続けていた。

「緑が濃すぎるんだわ。だから感覚が狂ってしまうのよ、きっと」
「えっ、何?」
思わず口をついた独り言に、並んで露天風呂に浸かっていた佳奈が振り向く。
「ううん、何でもない」
聖子は慌てて首を振った。
「それにしても、ここって周りに何もなさ過ぎ。コンビニだって一軒もないんだよ、まったく。これが東京と同じ、日本の中にある町だなんてなんて信じられない。私だったらこんな所ではとても生活できないよ」
風呂の縁に顎を乗せてそう呟く佳奈を見た聖子が笑った。
「だからわざわざ都会を離れて温泉郷に旅行に来るんでしょう?それに同じものでもこれが街中にあったら、ただのスーパー銭湯になっちゃう。それだと、ありがたみが半減よ」

それもそうだね、と佳奈も笑う。
「でも、ここってすごい場所だよね。両側から岩山に挟まれて、下界に抜ける道はたった一本。今でこそ緊急時にはヘリも飛べるし、トンネルも出来てるから車で街に出ることも容易だけど、昔は確かに難所だったんだろうなぁ。ほら、あの山の上から岩でも転がってきたら、下にいる人はぺっちゃんこだよ、多分」
夜の闇の先、ちょうど露天風呂の正面あたりに遠く山陰が見える。そこは左右から岩山が迫り出してきていて、下を走る道路の道幅を圧迫している場所だった。この道は昔の街道跡がそのまま県道になっているところだと言うから、確かに上から落石でもあれば、下を通るものはひとたまりもなかっただろう。

「だから要所だったんでしょう。ここが天然の要塞であり、関所だったから皆がこの地を押さえようと争って…」
そう言いながら岩山に目を遣った途端、突然視界が反転し、気がつけば彼女は小高い山の上から下を見下ろしていた。

眼下に広がるのは、鬱蒼とした木々とその間に切れ切れに見える、細く曲がりくねった土道だ。
やがて蹄の音と荷車の木の車輪が軋む音が聞こえてくる。
がさがさとした何かが擦れ合う音とともに、多くの足音が谷間に響く。
あれは…昔の侍の装束?
少しずつこちらに近づいてくる一団。その姿がはっきりと識別できるようになった途端、どこからともなく彼女の周囲に男たちが現れた。
「来たぞ」
号令一発、それらの軍列に頭上から雨あられのごとく落とされる大小の岩。
混乱の中、人や馬が次々に命を落として屍となり、狭い土道に累々と折り重なっていく…。

身構える間もなく、突然何かのビジョンに引きずり込まれた聖子は、その残酷な映像から必死に目を背けようとした。しかし、その足掻きも虚しく、どんどん実体のない自分が死に行く人々の断末魔の叫びに引きずりこまれていく。
その時だった、自分を引き戻そうとする誰かの声が意識の端を掴み、捕らえたのだ。

「聖子、聖子ったら、しっかりしてよ」
「えっ?」
思いきり揺さぶられた聖子は、自分の肩を掴んで名前を呼び続ける友人を、焦点を失った虚ろな眼差しで見た。
「どうしたのよ、急にぼんやりして。こんな浅いお風呂で溺れたりしたら、シャレにならないんだから」
そう言われて自分の体を見ると、今さっきまで座っていた岩からお尻がずり落ち、顎の下まで湯が迫ってきている。意識がぼんやりしたままお湯の中に没したら、佳奈の言うとおり、本当に溺れてしまっていたかもしれない。

「ご、ごめん。つい、ぼうっとしちゃって」
「逆上せたの?そろそろ上った方がよさそうだね」
「そ、そうみたいね」



部屋に帰ると少し早めだが休むことにした。
明日は二人ともトレッキングのコースに参加する予定で、出発は朝の8時。それまでに朝食を済ませて、身支度も整えておかなくてはならない。
リュックサックに必要な携行品を詰め込み、明朝起きたらすぐに着られるように、簡易登山用の動き易い服装を準備してからベッドに入った。

「明日、天気が良いといいね」
「テレビでは晴れ時々曇りって言っていたけど、山の天気は予報が当てにならないから」
「一応、聖子に言われたから雨対策のレインコートも持ってきたけど、入れておいた方がいいかな。何かワクワクする」
本格的なトレッキングは初めてという佳奈は、かなり楽しみにしているようだ。
「そりゃぁ、佳奈は楽しみでしょう?だって森さんも参加するんだし」
「えっ、それはあんまり…」
「関係ない?」
「関係なくない…かも」
語尾を濁らせながら、掛け布団の中に潜り込んだ佳奈の様子に、聖子は思わず声を立てて笑った。
「いいじゃないの。せっかくだから、明日は二人で楽しみなさいよ。私は一人でも充分満喫できるから」
「聖子はそっちが趣味だから、それはそうかもしれないけど、やっぱり誰かと一緒の方が楽しいでしょう?」
聖子は友人の気遣いが嬉しかったが、同時にあまり仲の良い同僚がいない彼女に、佳奈が付きっ切りになっていることが、心苦しくもあった。
特に今回は森もこのコースに参加することにしていると知ってからは、何とか彼らを二人きりにできないものかと考えあぐねていたのだ。
「いつも一人で山歩きをしているから平気よ。それに一人といっても、他にもたくさん人がいるんだし」
予定ではトレッキングには10人ほどが参加すると聞いていた。
当日少しは変動があるかもしれないが、概ねそのくらいの人数は一緒に行動することになるだろう。

「とにかく、一緒に歩こうよ。一人で先に行かないでよね。それじゃ、おやすみ」
「おやすみなさい」

暫くすると隣のベッドから軽い寝息が聞こえてきた。佳奈はすでに寝入ってしまったらしい。
だが、聖子は枕に頭をつけながらも、なかなか寝付かれなかった。
浴場で見たあの映像は一体なんだったのか。
思い出しただけで鳥肌が立つほどの臨場感。
映画のワンシーンのようにも思えるが、それにしてはあまりにもリアル過ぎた。
今までも幾度となくデジャビュを経験してきたが、これほどはっきりと状況を感じとったのは初めてのことだった。
そして突然、自分の意志とは関係なくトランス状態に陥ったことも。

「ここに来てからというもの、何か変なのよね、私」
どうしても昼間の老女の言葉が、耳について離れない。笑って聞き流せば済むような話なのに。

『戻って来い、お前の要るべき所へ、ここに戻って来い。待っている、いつまでも待っているぞ』

その時、突然頭の中に響いた囁くような低い男の声に、はっとした聖子は思わずベッドから起き上がった。
「何?今のは…」
恐る恐る辺りを見回したが、もちろん近くにそんな人影はない。
ただそこにあったのは、緩やかな風に靡く木々の陰を映し出す、月の光だけだった。




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